2017.11.12 Sun.

大ファミリー本番

染谷商店集合写真、真ん中赤いジャケットが染谷さん、犬は死んでしまったBIG、隣の緑の法被が2代目のお父上。後列左端が、染谷さんの弟で3代目社長の明男さん

  「東京は大きな油田である」。
 そんなことを言って、豪快に笑う女性がいる。「TOKYO油電力」代表、染谷ゆみさんだ。
 TOKYO油電力は、そもそもは「TOKYO油田」といった。染谷さんは東京の下町、墨田区で家業を継ぐ3代目で、TOKYO油田も、TOKYO油電力も、染谷さんが始めたコンセプトであり、取り組みである。
 私たちは大抵、再生可能エネルギーや自然エネルギーは、豊かな自然の中でつくられるものと思っている。しかし、東京のレストランはもちろん、一般家庭から排出される「天ぷら油」が車を走らせ、果ては発電をして私たちの家の電気を灯らせてくれるとしたら、どうだろう。
 大都会にありながら地産地消で循環型、さらには持続可能な社会に頼もしく寄与する「TOKYO油電力」について、3回に分けてお届けする。
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5店舗でのスタートから3年、イトーヨーカドーで展開させていただいている回収センターは、順調に増えていっている

ーTOKYO油田はお爺様が始められたとのこと。どういうお仕事だったんでしょうか?
染谷 油回収事業は祖父が戦後に始めました。墨田区は東京大空襲で焼け野原になった地域であり、祖父たちはその墨田区の北部(墨田区墨田)で、商売をやっていたのです。
 店は焼け出され、仕事がない時に、仲間から「油カスを取りに来る輩がいて案外と羽振りがいい」と油回収事業のことを教えてもらったと言います。もともと料理人だった祖父は厨房に出入りするのに抵抗がなかったのと、そういった仕事仲間もいたのでしょう。彼らのところに油カスの回収に行くようになり、必要であればリヤカーで墨田区から新宿まで行ったと伝え聞いています。新宿までリヤカーでなんて大変だったと思いますが、
「行きは空だから楽で、帰りは下町へ坂道を下って来るから大変じゃない。ただ上野が山になっているので、あそこだけ頑張ってこがないといけない」
と。当時はのんびりしていたんですね。
 焼け野原から、まさしく裸一貫でのスタートでした。
 当時は油カスを集める仕事はゴミ拾いのような仕事で、父は子ども心に祖父の仕事が恥ずかしかったそうです。祖父も「これは仮の姿。お金を貯めて、店を再開するのだ」と言っていたそうですが、そう言いながら夢は叶わず亡くなってしまいました。恥ずかしがっていた父は、高校へ入る頃には三輪自動車の免許を取って、手伝っていたらしいです。
 祖父は、父が結婚する前に亡くなってしまったので、私は会ったことがありません。だから、油の事業が三代も続いていることに驚いているでしょうし、「TOKYO油田」なんて言っているのを苦笑いしているでしょうね。
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15年前に活躍していたトラック

ー最近ではスカイツリーや北斎、相撲で「本物」を推している墨田区ですが、染谷さんが育った頃は、どのようなエリアでしたか?
染谷 墨田区は南北に広がっている区で、スカイツリーのある押上から北と南では文化や歴史が違います。スカイツリーから眺めてみるとわかりますが、押上から南は碁盤の目の街並みです。その一帯には本所、両国と江戸の町がありました。鼠小僧の本を読むと、押上は「押上村」で「江戸から一里でこんな田舎」と書かれています。
 それより北の八広は葛飾郡という地域です。隅田川が流れているせいで両国は墨田区になりましたが、もともと両国の人は墨田区に入れられるのは嫌だったんじゃないかな?(笑)と、予測します。なので、墨田区育ちで「江戸っ子」と言われてもちょっと北部の人間には違和感がある。父は、「オレたちは『下町っ子』だ」とよく言ってました。
 私が子どもの頃の墨田区北部は町工場が多く、音や匂いのする町でした。野良犬も多くて怖かった。また、鉄工所はオープンになっているからその前の通りに鉄を切る火花が飛ぶんです。私には上に強気で勝気の姉がいて、よく手を繋いでもらって怖い道を通してもらっていました。
 長屋も多く、貧乏だけどみんなで助け合っていくような下町でした。私も兄弟が多かったので、近所のおばさんにご飯をよく食べさせてもらいました。隣近所が親戚みたいなもので、高校生くらいまで、学校から帰ってくると乾物屋や鳥屋さんに「ただいま」と言ってたように思います。
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ーそして結局はお父上も仕事を継ぎ、染谷さんが3代目となる。
染谷 2代目の父は油屋を継いで工場を発展させました。もともと住宅地だった生家の地から離れ、工場地帯で油の匂いにクレームのこない東墨田に引越しをして、今の染谷商店ができました。
 私が高校生の頃にバブル経済に入ります。当時は、油工場なんて3Kと言われ、深刻な人手不足になります。数坪のオフィスで株や土地を転がして儲けていく人が多くいる中で、油まみれに働くなんてことが馬鹿馬鹿しい時代でした。
 ですので、父は子どもたちの誰かに継いで欲しいという想いはあったものの、「自分の時代で終わりにしよう」と思っていたようです。当時は「家族が生活できればいい」くらいに工場も運営していたようです。
 ところが、私や弟が「染谷商店に入社したい」と言い出しました。嬉しい反面、もう終わりの事業と思っていた矢先だったので、気持ちは複雑だったようです。3K仕事で後継者どころか人手不足の時代に、若手が町工場に入るということ自体がニュースでした。
 新たな世代が事業を受け継ぎ、時を経て、「TOKYO油田」という概念でオールドビジネスをイノベーションさせていきました。
ー油まみれのお仕事、特に女性はあまり好まなそうな気がします。なぜ、始めたんですか?
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「TOKYO油田プロジェクト2017」スタートに合わせ、車をラッピングしてリニューアル

染谷 人はいいけど保守的で、文化的なものがなくただ退屈なだけの町から離れたくて、高校は三鷹市にある明星学園へ通いました。当時、墨田区から吉祥寺へ高校生が通学するのにはずいぶん抵抗もありました。「遠過ぎる」と。1時間ちょっとですけどね。
 高校はみんな私服で、校則はありません。選択授業も多いので大学みたいな雰囲気でした。毎日中央線に揺られ、井之頭公園を通って通学していました。墨田区では考えられなかった、いい環境でした。
 当時は、中学校が荒れて校則は多く、管理教育が強く進められた時代でした。墨田区の八広に生まれた子供たちは、わからない何かに反抗はするものの、社会の歯車へとなっていくだけの存在でした。そんな不条理に耐えかね(笑)、自由な高校を選んで進学したものの、「ただ自由なだけの学校も良くないな」と思うようになります。
 このまま日本の学校に進学してもつまらないと思った私は、大学進学をやめて世界へ旅にでることにします。大阪から鑑真号という船に乗って2泊3日、飛行機で行けば2時間半の上海に上陸し、思いっきりのボディーブロー、大きなカルチャーショックに遭います。今までのすべてを否定されたような衝撃でした。
 1985年の中国は、まだまだ未開発で貧しくて、日本の戦後くらいの状態でした。中国人には色々なことを教わりました。
 もし、地球をアメリカから回っていたら、もうちょっと違っていたかと思います。西からだったのでそれはそれは過酷でした。好きな旅ではありましたが、移動するのも宿をとるのも、すべてが新鮮を通り越して苦行でした。
 そして、この18歳のアジア放浪で土砂災害に遭い、九死に一生を得た経験が、環境問題解決への決意になりました。
染谷商店工場

昭和50年に建て替えられた、染谷商店工場

 

次回へ続く(全3回)

 

(取材:平井有太)
2017.10.12 thu.


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