2016.08.30 Tue.

  「ONE STEP(ワンステップ)」と聞いて、1974年8月に福島県は郡山市、開成山公園で開催された伝説のフェスティバルが頭に浮かぶ方はどれくらいいるだろう。
 その発起人であり、実行委員長を務められた佐藤三郎氏が6月、急逝された。本稿は昨年12月、当時まったく元気な佐藤氏が、ワンステップを実現させたバイタリティをそのままに「今」について語ってくださった、たぶん最後のインタビューである。
 「日本版ウッドストック」と呼ばれ、オノ・ヨーコさんをメインアクトに、内田裕也氏、石坂敬一氏らのサポートのもと開催された、今や日本に当り前に根付いた「フェス」のパイオニア。その源流には、ミニコミ誌「ONE STEP」があり、郡山アース・デーがあり、「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」というテーマがあった。
 時代を先駆けした、音楽と環境問題のイベントが「ONE STEP」。当時すでにそこには「持続可能=サステナブル」な社会についての問いかけがあったのだ。
 御子息から許可をいただき、2回に分けて、佐藤三郎氏のインタビューをお届けする。

 

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佐藤 東京都現代美術館でやってるオノ・ヨーコさんの展覧会、学芸員の方もわざわざ郡山の家まで来てくれて、「ONE STEP」ポスターを展示しています。
 この間自分も行ってきたんだけど、学芸員さん曰く、結構毎日かじりつきで来る人がいると。
——ピンポイントで「ONE STEP」ポスターを観に来られている。
佐藤 話を半分差し引いても、少しは観てくれてるんじゃないかって(笑)。
——2011年、あれだけ大変なことがありながら、福島は文化の力と共に前進を始めています。そしてその力の源を遡ろうとすると、どうしても「ONE STEP」に辿り着きます。
佐藤 自分は大したことをやってきたわけではありません。
 ただ、今も町内会長をやっています。地域には400世帯、1年交替のところでもう5年目になります。
 今、社会はものすごい勢いで核家族になっていて、それは日本をダメにする大問題ではないかと。そこでこの町内そのものを「大家族の仲間同士」ということにすれば、何かあった時にお互いに助け合えるんじゃないか。そのことをずっと提唱してきたんだけれど、なかなか動きも遅い。
 オレの行動はたぶん、そこにある。
 何を言われたって、結論を見ずしてやめるなんていうのはとんでもない話で、思いきってやるだけやってみて、1年に何人かでもファンができたら、サークルが広がっていく。その広がりが大きくなると、町内会から市になっていく。ここは郡山市だけど、そうしてそれが県、日本と広がっていけばいい。
——地域、家族が原動力。
佐藤 自分自身、人の意見を押しのけて今日まできていないとは、決して言えない立場です。でも、誰かが見よう見真似でも、そういう姿勢でいないとならない。
 当然「ONE STEP」だって最初に「何をやるんだって」、やいのやいの言われました。だけどオレはNYに行って、帰りハワイをまわって映画を観た。それがたまたま「ウッドストック」だったんです。最初観に行った時は疲れて居眠りをしちゃって、翌日もう一回、何か重要なことがあの映画にあるような気がして、午前中から観に行ったの。

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——その時の直感が、「ONE STEP」開催に繋がっていく。
佐藤 大きなイベントをやるというのは、家庭の中で全員が「よかった、よかった」という空気をつくれるかというと、そこには犠牲がつきまとい、同時に深い理解がないと、絶対できないなと。
 最初に「ONE STEPフェスティバル」をやるのには、1億2千万円くらいかかったの。半分は赤字で、ひっちゃかめっちゃか。
——大赤字(笑)。
佐藤 でも、「観られるだけで、いいじゃないか」って。兄貴も助け舟を出してくれて、「オレたち兄弟、誰もお前の真似はできないよ」って。
 個人的には、こんなことで今こうやって取材を受けても、「本当に笑ってください」と、佐藤三郎としては、なんとなくむず痒い気がするんです。やったことは間違いないけど、それが参考になるかと言ったら、「やらない方がいいこともいっぱいあったな」って。
——やったことを後悔されている?
佐藤 いや、やって良かったですよ(笑)。
——ONE STEPは、どのようにかたちになっていったんでしょう?
佐藤 (オノ)ヨーコさんと会うきっかけは、あの人がジョン・レノンと日本に帰った時の第一声はいつも同じで、「緑が少なくなったわね」だったんです。街にゴミは山とあるのに、誰もが知らんフリで、ゴミ拾いの姿なんて見たことがない。
 彼女が「これでいいのかしら」と言っているというのを、オレは当時東芝EMIによく行っていたので、聞いていたの。だから、「イベントをやるのはこの人とに決めた!」と思ったのは、それだけの理由(笑)。
——アメリカ旅行はおいくつの時ですか?
佐藤 同級生含めて7人で、32歳くらいの時ですね。「勉強会」と称して、勉強なんか何もせず、結局は「ウッドストック」から少し中毒になりそうな、そういう空気をもらって帰ってきた。今、その同級生が言うには、「あんたをこんなにしちまった、オレたちが火をつけたんだろうな」って。
 1971年にハワイで映画を観て、帰ってきて72年に「ミニコミをやりたい」となって、それには若者がいないといけない。歌をやるもの、絵を描くもの、本を書くもの、色々若い人たちに声掛けをしたら、いつの間にか次から次へと来るようになって。

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special thanks:郡山のBooks & Cafe「Go Go Round This World!」

——ご自身が動き出すと、まわりも動き出した。
佐藤 それでミニコミを始めたら、「東京に取材に行きたい」とか言って来るので、当時片道で6時間もかかるのに「日帰りならいいよ」って。お金なんかないから(笑)。
 それで取材をしてる中で、渋谷で「すごいのを観てきました」と聞いたのがが「内田裕也とフラワー・トラベリン・バンド」だった。
 それで「あの人たちを呼べないんでしょうか」という話が、それは最初ただのヒントだったんだけど、「面白いね」って、乗っちゃったんだよね。そこから今に、ずっと続いていくわけ。
——それを発端にCAROLサディステック・ミカ・バンド四人囃子他たくさん、錚々たるメンバーを郡山に招聘するに至る。
佐藤 ジュリーも来ましたね。初日のトリはジュリーで、クリス・クリストファーソンご夫婦も新婚旅行みたいな感じで来て、夫婦ではトリはダメということだったんだけど、参加はしてくれて。
 そんなことは初めてのことで、「(親指と人指し指で丸をつくりながら)佐藤さん、コレいるんだけど大丈夫なの?」って(笑)。
——当時の興行の世界は、地元のその筋の方とどう話をつけるかということも重要な要素かと思います。
佐藤 それはいっぱいあったけど、みんなオレが行くと怒らなかった。当時オレはどうしてもやりたいから、「坊主にしてくる」って長髪を切ったの。そしたら市長まで、「あいつは坊主にしてまで会いたいって言ってる」と会ってくれたり、その筋の方々も結局どんどん来てくれて。(次回に続く)

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右が、長髪時代の佐藤さん。左は、東芝EMI時代にビートルズを手掛け、その後ワーナーミュージック・ジャパン会長までなられる、石坂敬一氏

 

(聞き手:平井有太)
2016.08.29 tue.


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